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【要約・書評】『生の短さについて』セネカ

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」

スティーブ・ジョブズの名言です。
この言葉に奮い立たされた方も少なくないでしょう。

しかし、この名言を2000年も前に残している人物をご存知でしょうか?

世界史でキーワードだけ登場するセネカさんです。
「ああ、キケロさんとよくセットで出てくるやつね」って感じでしょうか。
私も本書を読む前は、その程度の認識でした。

ちなみに、セネカさんは何とおっしゃっているかというと

時間を残らず自分の用のためだけに使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日でもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

『生の短さについて 他2篇 (岩波文庫) 』より

「時間は、自分のためだけに使う(他人に使わせない)」
「一日一日を、最後の日だと思って生きる」

人生の時間の使い方を突き詰めると、この本質にたどり着くのかもしれません。

今回は、この本質of本質を教えてくれる『生の短さについて』をご紹介します。

『生の短さについて』とは?

繰り返しになりますが、本書はローマ帝国の政治家であり哲学者でもあるセネカによって書かれた本です。

元々は、騎士階級、教科書でいうエクイテスの一家に生まれた方です。
・・・「エクイテス」、高校卒業して初めて使いました。

そんなことはさておき、一見すると、生まれも育ちも良く、イージーゲームな人生を送っていたんじゃないの?と思いたくなります。
しかし、イージーとは全く真逆のウルトラハードな人生を送った人物。それがセネカなのです。

  1. 二十歳ごろに大病(結核や肺炎と言われている)を患う
  2. 闘病しながら研鑽を積み、元老院議員になる。たくみな弁論術で有名になる
  3. セネカの優秀さに嫉妬したカリグラ帝からは処刑されかける
  4. 次のクラウディウス帝時代には、権力争いに巻き込まれ、コルシカ島に追放される(この時代の島流しは、死刑判決に等しい処罰)
  5. コルシカ島からローマに戻されたと思いきや、ネロ(のちの暴君)の教育係を命じられる
  6. 最後は、ネロに冤罪をでっちあげられて死刑にされる

かいつまむと、上述のような人生を歩んでいます。
・・・今では考えられない、壮絶な人生です。

今回紹介する『生の短さについて』は、上述の5番のタイミング(流刑からローマに戻ってきたころ)に書かれたとのこと。
大病を患い、死刑にされかけ、島流しにあう。
いつ死んでもおかしくない人生を歩んだからこそ、人生の短さについて綴ったのかもしれません。

ちなみに『生の短さについて』は本来、知人であるパウリウヌに書いた手紙です。
しかし、「まるで自分に向けて書いたのか?」と思うほど、グサグサと心に突き刺さります。
もっと言えば、他人とデジタルツールに振り回されて時間を浪費しまくっている現代人をターゲットにしてるんじゃないの?と勘繰りたくなる。
2000年前に書かれた本とは思えない、エスパーな本。
それが『生の短さについて』です。

本書から学べること

ローマ帝国にて「弁論術に長けたセネカさん」と知れ渡っていただけあって、いくら読んでも飽きない語り口です。
詩人でもあったようで、言葉のリズムなんかも気にしながら書いたのでしょう。
訳者の腕も素晴らしく、スムーズに読み進めることができます。

そんな本書の中で特に印象に残った点をご紹介します。

時間がないのは、時間を「浪費」しているから

よく「時間がない。1日が短すぎる」と嘆いてしまいがちですが、セネカは「それは違う」と断じています。

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。

シンプルで厳しい一文です。
時間が少ないのではなく、「浪費」をしているから短く感じるだけだと。

では、どうして時間を浪費してしまうのか?
この問いについても、セネカは答えてくれています。

では、その(生の浪費の)原因はどこにあるのであろう。誰もが永遠に生き続けると思って生き、己のはかなさが脳裏によぎることもなく、すでにどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にもとめないからである。

つまり「人生は長い」という前提を置いてしまっているから、時間を浪費をしてしまう。

これは、我々にとって重要な示唆です。
というのも、新聞や自己啓発書を開けば、「人生100年時代だ」と書かれていて、あたかも自分の人生が長いかのように錯覚する恐れがあるからです。
「人生100年時代」と聞いて、「うわ、全然時間ねーじゃん」と思える人がどれほどいるでしょうか。
むしろ「老後、働けなくなったあとに備えなきゃ」「そのために、今は我慢するんだ」と感じざるを得ません。

しかし、その「人生は長いから」という認識が、そもそも誤っているわけで。

まさに、今、私たちがセネカを読むべきなのは、この「人生は長い」という幻想から目を覚ますため・・・なのではないでしょうか。

「老後に楽しみをとっておこう」と考えるのは愚か

「人生は長い」と認識するのは危険である。

セネカはこの点について、少し違った観点でも切り込んでいます。

わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何とも愚かな忘れやすさであろう。

つまり、「老後に楽しもう」は愚かな考えである。

人生100年時代なのは間違いないのでしょうが、その100年時代をどう過ごすべきか、今一度見直しが必要だと痛感しました。

自由になる時間を「自分のためだけ」に使う

この点は、いろいろなビジネス書にも書いてありますね。

冒頭の繰り返しになりますが、セネカも次のように語っています。

時間を残らず自分の用のためだけに使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日でもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

まさに、スティーブ・ジョブズの名言
「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」
この問いを抱いて生きなさい、ということです。

過去を振り返り、人生に厚みを出す

セネカは、過去を振り返ることについても、重要な示唆を与えてくれます。

生は三つの時期に分けられる。過去、現在、未来である。このうち、われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確定であり、過ごした過去は確定している。過去が確定しているのは、運命がすでに支配権を失っているからであり、何人の裁量によっても取り戻せないからである。その過去を、何らかに忙殺される人間は見失ってしまう。彼らには過去の出来事を振り返る暇がないからであり、また、その暇があるにしても、後悔していることを思い出すのは不快だからである。それゆえ、彼らはうまくいかなかった過去の時に心を向けるのを嫌がり、それをあえて思い出そうとはしない。自分たちの過去の悪事が、たとえそれが今という時の瞬時瞬時の快楽というある種の誘惑によって隠蔽されていたとしても、記憶に蘇らせれば暴露されてしまうからである。

(中略)

しかし、過去という、われわれ人間に与えられた時間のこの部分は、神聖にして聖別されたものであり、すべての人事を超越し、運命の支配権の及ぶ圏外に置かれ、欠乏にも、恐怖にも、疾病の衝撃にも脅かされることのない時間である。過去は搔き乱すことも、奪うこともできない。それは永遠で不安のない所有物なのである。今ある現在は一日一日を言い、その一日も刹那の一瞬から成る。しかし、過去の日々は、どの日でも、命じれば眼前に到来し、思うがままに、覗き見ることも、とどめることも可能である。ただ、何かに忙殺される人間には、その暇はない。自分の生のどの部分をも自由に逍遥できるのは、不安のない平静な精神の特権なのである。

いろいろ辛口で書いてありますが、要は以下のメッセージだと理解しました。

  • 過去を振り返らないのは愚かである。にもかかわらず、過去を振り返らないのは①忙殺されて振り返る時間がないから、②忙殺はされていないものの辛い過去を振り返るのはキツイから
  • 現在は、刹那にすぎていく「点」にすぎない。それらの点をいつでも思うままに繋いで「線」に意味づけすることで、人生に厚みが出る

これまたスティーブ・ジョブズの
「未来を見て、点を結ぶことはできない。過去を振り返って点を結ぶだけだ。だから、いつかどうにかして点は結ばれると信じなければならない。」
この言葉に通ずるものがあります。

過ぎ去った過去を、どう意味づけをして捉えなおすか?
この思考を経るかどうかで、人生の厚みに差が出るのでしょう。

***

ここからは私の話なので、興味がある方だけお付き合いいただければと。

これは、拙著『投資としての読書』の「おわりに」でも述べましたが、私自身、高校時代に病気になり、全く勉強できる余裕もなく、浪人をすることになりました。
浪人が決まったタイミングは、失意のどん底で「勉強も何もしたくない。希望もない」と本気で思っていました。

しかし、体調も少しだけ良くなり、しぶしぶ予備校に通ってみると、隣で座った人と仲良くなり。その人の仲間とも知り合い…といった感じで、一緒に学ぶ友人ができました。
また、私は高校時代は理系で、浪人時に文系に転じたので、周りよりも数学がちょっぴり得意な状態でした。
それで、友人に数学を教える機会が増えてきて、少しずつ「学ぶ楽しさ」に気づくことに。

ここで得た「学ぶ楽しさ」が、このブログを書く原動力になり、ブログが書籍の出版につながり。

もちろん、「100%全部偶然です」と言い切ることも可能でしょう。
しかし、失意のどん底だった浪人時代を見つめ直し、あえて意味づけしなおすと「病気になったおかげで、学ぶ楽しさに気づけた」「もっと言うと、病気になったおかげで、本を出版できた」と捉えなおすこともできます。(これは言い過ぎか)

・・・こんな感じで、過去をどう捉えるかは個人の自由に好き勝手にやればOKで、そうすることで人生に厚みが出た感が味わえます。
過去の捉え方次第で「人生短いよ~」と思わなくて済み、「おれの人生って豊かだなー」と思えるのであれば、
過去を振り返るのは、すごくコスパのよい時間術ではないでしょうか。

 

  • この記事を書いた人

Yusuke Motoyama

外資系コンサルティング会社を経て、経営大学院に勤務。年間300冊読むなかで、絶対にオススメできる本だけを厳選して紹介します。著書『投資としての読書』。 Books&Apps(https://blog.tinect.jp/)にもたまに寄稿しています。Amazonアソシエイトプログラム参加中。 執筆など仕事のご依頼は、問い合わせフォームにてご連絡ください。

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